吉里颯洋の年甲斐ない日記

作詞家・吉里颯洋のブログ

【独白】矢沢永吉さんに、3度救われた話

渾身のタイトルが表紙に刻まれた「BARFOUT!」2004年9月号


記念すべき初投稿は、自分はBOSS こと矢沢永吉さんに3回救われた経験があるので、そのことについて。
矢沢ファンの方は、このブログのネーミングの由来であり、自分の作詞家デビュー曲である「年甲斐ない関係ない限界なんてない」の誕生秘話も併せてお楽しみください。

BOSS、「音楽」という光をありがとう

まず、最初の僥倖。
何もすることがなく、冴えない帰宅部員だった高校生時代の自分に「音楽」という光を見せてくれたのがBOSS でした。BOSSを知ったきっかけは、ふと書店で手にした「成りあがり」。よく語られるように、ミュージシャンの自伝としては出色の出来かと思います。広島育ちの矢沢少年が「憧れのビートルズみたいなミュージシャンになるんだ!」という夢を抱いて上京し、夢を実現していくストーリーがリアルな筆致で描かれていて、夢中で読みました。多くの矢沢ファンのように、「成りあがり」の文庫本をバイブルにして常時携帯し、以降、何度読んだかわかりません。

『ゴールドラッシュ』→『YAZAWA』→『RISING SUN』→『PM9』→初期の名盤の順でアルバムを聴いていき、当時、失恋確定のような片思いをしていた自分は、BOSS の「ザ・ロックンローラー」というパブリック・イメージとは対極にある、恋人との別れの場面が美しいメロディに乗せて歌われる「ひき潮」↓というバラードに心酔していたのを覚えています。



そして訪れた1982年の9月某日。「その時」が来ました。
どうやってチケットを入手したのかも思い出せませんが、日本武道館で開催された「PM9 LIVE」で、BOSS のライヴを初体験したのでした。タイトルからして、ニューアルバム「PM9」の収録曲がメインで演奏されるのは理解できましたが、予想の斜め上、いや遥か上を行くオープニングの衝撃度はマックスでその後の人生を一変させるのに充分でした。
オープニングの1曲目は、当時まだリリースされていなかった全編英語詞のアルバム『YAZAWA IT’S JUST ROCK’ N’ ROLL』に収録された「ROCKIN’ MY HEART」、続く2曲目も同アルバム収録の「CAN GO」。要は、聴いたこともない英語のロックンロールナンバーが当時の日本人ミュージシャンのライヴでは聴けなかった骨太なアメリカンロックなサウンドに乗せてぶっ放され、長州力さんのリキ・ラリアットを連発で喰らったぐらいの衝撃を受けたのを覚えています。

当時話題になったのは、BOSS のバックを務めるサポートメンバーたちが、ロスでレコーディングを共にしているドゥービーブラザーズのメンバーをはじめ、選りすぐりのアメリカ人ミュージシャンだったこと。歌うBOSS 以外、ステージに立っているミュージシャンは全員アメリカ人なのです。サウンドのクオリティにおいて「邦楽」と「洋楽」の間にはまだ壁があった80年代の初頭、「日本人ボーカリストがアメリカの一流ミュージシャンをバックに従えて武道館で歌う」のはおそらく本邦初で、この国のロック史というより、日本のエンタメ史に大きな楔を打ち込んだことは想像に難くありません。事実、このライヴは幾度かにわたってNHKで録画放映され、数多の音楽雑誌のグラビアを飾ったのを覚えています。そして、レコーディングはもとより、ツアーメンバーも海外の一流ミュージシャンで固め、名作、名盤を連発していった「YAZAWA GOLDEN ERA」と呼ぶべき黄金時代の幕開けとなった気がしています。

そのライヴでのBOSS は髪の毛を下ろしていたのですが、以降、自分は髪型をリーゼントにして、学校での休み時間や放課後などにはスタンドマイクならぬモップを振り回してBOSS のパフォーマンスを物真似し、あだ名も「永ちゃん」になりました。ご迷惑をおかけした当時のクラスメイトの皆さまには、この場を借りて謝罪します(苦笑)。中学時代の自分はクラスでまったく目立たない「のび太くん」のような内気な少年でしたから、「あいつ、高校行ってグレたらしいぜ」と地元(新宿区大久保3丁目付近)で噂になったと後から聞いて、「ロックンロールに目覚めることと、不良になることは訳が違うぜ!」と思いつつも、心密かに爆笑しました(笑)。
「『音楽』という光を見せてくれた」と冒頭に書きましたが、もちろん、それだけでプロのミュージシャンになれる訳ではなく、そんなに甘い世界でもありません。ただ、「自分は矢沢永吉さんの音楽が好きだ、ロックンロールが好きだ」と自覚できただけでも、大きな出来事でした。あくまで私見ですが、「対象が何であれ、何かを好きになって初めて、その人の人生は始まる」と自分は考えています。野球やサッカー、その他諸々のスポーツ、文学や演劇、絵画などの芸術、アイドルや特撮などのオタク寄りの趣味でも何でも良いのです。「自分は○○が好き!」とはっきり自覚できる何かがあれば、そこから人生は輝いていきます。BOSS に出会って以降の自分は、BOSS がアマチュア時代に代表曲のいくつかをコピーしていたビートルズやストーンズの音楽も聴くようになり、さらに、そのルーツである50’Sのロックンロールやさらにそれ以前のシカゴ・ブルーズのマディ・ウォーターズにまで遡り、豊かな音楽体験ができました。ある意味、「吉里颯洋」を名乗る男の人生は「E.YAZAWA」から始まったと言えるでしょう。学校の成績が目に見えて上がったとか、女子からの人気が急上昇したとか、そんな分かりやすい変革ではなかったかもしれませんが、「のび太くん」だった中学時代の弱気な自分はどこかに消え去り、気がつけば「心の中でロックンロールを鳴らしていれば、いつでもゴキゲンだぜ」と心から言える自分に生まれ変わっていました。まさに、「サンキュー、ロックンロール!」ですね(笑)。
 
そして、何より、超名盤の『E’』は言うに及ばず、80年代から90年代にかけてリリースされたBOSS の名曲、名盤の数々に、人間の喜怒哀楽の深みと美しさを教わりました。ちなみに、大学進学の際に英文科を選んだのは「BOSSが渡米して英語盤のレコードを出したから」という至ってシンプルな理由からです(笑)。

BOSS、俺を世に出してくれてありがとう

アルバム『横顔』のジャケット


そして、2度目の僥倖。
時は流れて、2003年某月某日。長らく勤めた会社を辞めた後、自宅で寛いでいた、冬のある日の午後の出来事です。

当時使っていた携帯の着メロに設定していた「トラベリンバス」が鳴り響きました。携帯を耳に当てると、「矢沢です」という聴き慣れた渋い声。「聴き慣れた」と書いたのは、もちろん、「テレビやラジオで」という意味です。一瞬、自分が熱狂的な矢沢ファンだと知っている友人からのいたずら電話かと思いきや、さにあらず。なんと、BOSS ご本人からの直電だったのです。自分のささやかな人生で、あんなに驚いたことはありません。今でもはっきりと覚えているBOSS の最初の一言は、「そうさん、歳はいくつですか?」というフレーズでした。
電話の内容は、「一緒に曲づくりをしてみないか?」というありがたいお話。もちろん、少年時代からのヒーローであるBOSS からのご提案であれば、問答無用で「二つ返事でOK」するより他に選択肢はありません。とは言え、既に音楽業界の片隅で痛い目にも遭っていた自分は、「まったく無名の自分が、作品を採用することを前提として作詞の『オファー』をいただいた」と勘違いするほど、おめでたくはなく、「次作の制作時に声をかけるから、コンペに参加してみて」という意味だと理解できました。会話した時間はおよそ30分ぐらいだったのか、正確な時間は思い出せませんが、震えるほど感動したのは、まったく面識のない無名の私に対して、終始礼儀正しくリスペクトをもってBOSS が接してくれたことです。「あぁ、少年時代から憧れ続けたスーパースターの実像は、憧れた以上の人物だった。この人を追いかけてきて本当に良かった」と涙があふれました。あの時、流した涙こそ、生涯最高の「感涙」だったに違いありません。

とにもかくにも、「俺は絶対に、BOSS のアルバムで作詞家デビューする!」と心に決め、BOSS との会話の内容を忘れないよう、あわててパソコンに打ち込んだのを覚えています。
そして、翌年。忘れもしない、2004年の9月1日。アルバム『横顔』の2曲目として、私が作詞した「年甲斐ない関係ない限界なんてない」は世に出たのでした。ちなみに、矢沢永吉史上、最長(?)なのかもしれない、そして歌のタイトルにしては文字数がかなり多い、このタイトルを付けたのは自分ではありません。誰かって? BOSS ご本人です。
余談ですが、記事の冒頭にアップした写真は、自分の作詞家デビュー曲のタイトルが刻まれた2004年の9月に発売されたカルチャーマガジン「BAROUT!」の表紙。創刊者にして編集長の山崎二郎さんとは、これがご縁で知り合い、私が編集のお仕事をお手伝いしたり、時には同じユニフォームを着て、共通の趣味であるベースボールを満喫することもあったりします。
「年甲斐ない〜」のリリースから、ちょうど10年後の2014年、ご縁があって作詞させていただいた矢沢洋子さんの「NAKED LOVE」の作曲者は、長らくBOSS のバックバンドでリーダーを務めたトシヤナギさん。と、BOSS から始まるコネクションとご縁がつながっていく様を俯瞰して見る時、ロックンロールの神さまが運命の糸を操っているように思えてならないのです。

曲名を刺繍したグラブ。俺の私物です(笑)。

曲名を刺繍した白スーツ。矢沢ファン・kazさんの私物です。

BOSS、窮地の俺を救ってくれてありがとう

最後に、3度目の僥倖。
時は流れて、2022年。詳細は割愛しますが、自分は大きな挫折を経験しました。
その時、いわば闇落ちせずに済んだのも、BOSS のお陰でした。昨年、BOSS へ送った手紙の一部を、以下に引用してご紹介します。

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先日、オーストラリアでの詐欺事件についてテレビ番組で詳しく報じられていたのを拝見しました。BOSS の体験とはスケールが違いますが、昨年、私も詐欺被害にあって、窮地に追い込まれるという経験をしました。当時は精神的に追い込まれて、かなりキツかったです。危うく自暴自棄になりかけましたが、「年甲斐ない〜」の歌詞に救われました。「さて、これから俺はどうする?」と自問自答した時、自分は「『年甲斐ない〜』の歌詞に書いたメッセージだけは絶対に裏切れない。どんなにつらくても、ケツをまくって人生から逃げるのだけはやめよう。この人生、必ずきれいに逆転して、悔いなく終えよう」と思い直して、何とか踏みとどまりました。ちょうど20年前にBOSSに書いた歌詞が、ブーメランのように自分の元に舞い戻って窮地の俺を救ってくれたのです。

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ということで、長くなりましたが、
1)高校時代、BOSS の音楽が希望を見せてくれた時
2)BOSS に見出され、作詞家デビューの夢がかなった時
3)人生最大の窮地で、BOSS の歌声がなければ書きえなかった「年甲斐ない関係ない限界なんてない」の歌詞に救ってもらった時
と、自分の人生は都合3回もBOSS に救われました。まさに恩人であるBOSS には、感謝してもしきれません。

残りの人生、自分にどれだけの時間が残っているのか分かりません。ただ、すべてにおいて心を尽くし、全力で生き切ろうと考えています。時に挫けてしまうこともあるかもしれませんが、そういう時には自分の人生のテーマ曲である「年甲斐ない関係ない限界なんてない」を口ずさみ、心の中でマイクターンを決めながら(笑)、必ず立ち上がるつもりです。

ということで、このブログに自分の人生の第二章に並走してもらうつもりで、日々の記録をあれこれ記していきます。
ウェブ上のどこかにいるかもしれない読者の皆さま、よろしく!
いや、よろしくお願いします!

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※映像は最近のものですが、「PM9 LIVE」の前後に、ハワイのどこぞのアリーナで、BOSS がDOOBIESのライヴにゲスト出演し、共演したのはこの曲だったかと。
ステージの右端に立っているのは、矢沢ファンにはお馴染みのジョン・マクフィー。