吉里颯洋の年甲斐ない日記

作詞家・吉里颯洋のブログ

【小説「コニファー」】#01_‘She’に捧ぐ涙(初稿)

これまでのあらすじ

京都の某私大入学と同時に、最愛の母・すみれと大切な思い人・風間心を交通事故で亡くしてしまった柊波音(ひいらぎ・なみね)は、実家がある秩父で家族葬を終え、京都に戻る帰路、京都の母こと伯母の小此木さくらが打ち明けた話に衝撃を覚える。なんと、東北の震災で行方知れずになってしまった父の大介は、すみれと結ばれる前はさくらの恋人だったのだ。
【小説「コニファー」】#00_京都の母、さくちゃん、かく語りき(初稿)

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花の都は、鈍色の街

まだ肌寒い、3月下旬の朝。秩父からの帰路、夜通し走ってくれたさくちゃんの愛車のバックシートから見る限り、京都の街も出町柳の駅も一見変わりなく、賀茂川も高野川も普通に流れていて、すみれと心さんが天国へ行こうが世界は変わらずに動き続けるものなのだと実感する。もしも、こんなことが起きなければ、入学式までの春休み期間、いつも通りにさくちゃんの会社でフルタイムで働いてがっつり稼ぐつもりだったのに、とてもそんな気持ちにはなれない。自分の命の次に大切な存在を一度に2つも奪われたことに比べれば、そんなことは取るに足らないことかもしれないけれど、人間の「運命」というのは、こんなにもたやすく望まぬ方向に曲がってしまうものなのか。

滑るような静かなハンドルさばきで、さくちゃんがマンションのパーキングにクルマを停めると、バックシートの荷物を運ぶのは後回しにして、わたしたちはエレベーターで4階に上がり、部屋に戻った。バルコニーに面したリビングの掃き出し窓を全開にして換気をしながら、徹夜でドライブした疲れも見せずに、「波音、ベッドに入る前に、少しだけ話しましょう」と、さくちゃんはリビングのソファにわたしを誘うと、キッチンで温かい紅茶を注いだマグカップをわたしに渡して、ゆっくり諭すように話し始めた。「大切な人を亡くして途方に暮れている今のわたしたちのような状況を、心理学の専門用語では『対象喪失』と言うのよね。聞きかじりの知識だけれど、悲しい時には思い切り悲しんだ方がメンタルの回復につながるみたい。つらい時は遠慮なく言ってね。姉と娘という違いはあっても、わたしもあなたもすみれを亡くして悲しいのは同じだから、どんな気晴らしにも付き合うし、一緒に病院に行ってもいい。わたしたち2人にしかシェアできないものがあると思うから、お互いをサポートしながらやっていこうね。あと、これはすみれの願いでもあるけれど、無理しない範囲でいいから、波音は学業をしっかりやって。4年分の学費しか預かってないから、4年で卒業することを目標にしましょう。じっとしてるよりは気が紛れるから、授業は休まず出る方がいいと思うわ。吹けば飛ぶような会社だけれど、わたしも会社が傾かない程度には働くつもり。すみれから聞いてるかもしれないけれど、『波音に苦学生はさせない』っていうのがすみれとの約束だから、学業の邪魔になるほどの仕事はあなたにさせません。これまですみれがやってきた分の仕事は誰かに振るから、心配しなくて大丈夫よ。わたしの代で畳んでもいいと先代社長から受け継いだ小さな会社だけれど、あなたが大学を卒業するまでは何とか持たせます」と。そして、幼子をあやすような優しい光を瞳に宿すと、さくちゃんはこう続ける。「今の話は、すみれからあなたを預かった叔母のわたしからね。小さな編プロの社長としては、今の時点でウチの会社の20代半ばの女子社員と同等の実力があるあなたが留年しようが、あなたにその気があれば、先々は実力相応の待遇でウチの会社で面倒みるつもりだから、大船に乗った気持ちで4年間を楽しみなさい。ぶっちゃけ、メンタルが不調なら、少しくらい授業サボってもいいのよ。単位さえ落とさなければ、卒業できるのが大学だから。人が多い場所が苦手なあなたが大学のキャンパスに馴染めないことも想定内だから、大学がつまらなければ、ウチの会社に逃げてくればいい。あなたが楽しめそうな仕事をほどよく振るから。大学はキャンパスって場所じゃなくて、これから始まる4年間という時間だと思えばいいわ。あなたがやりたいと思う、今しかできないことをやってくれたらそれでいい。スキルは充分だから、これからは取材も少しずつやってもらうわね。もちろん、ウチの会社に就職することは強制しない。就活の際、その気になれば、東京の名の通った出版社にも受かるはず。もちろん、あなたがそれを望めばという仮定の話ね」とついさっきとほぼ逆のことを言って、さくちゃんは微笑んだ。わたしの心にあった杞憂のあれこれを先回りして払拭してくれるのは、さすがと言うよりほかない。「ほんとにメンタルがダウンしたときには、お互い、しっかり休もうね。生きてさえいればどうにかなるから、これからは、支え合ってやっていきましょう。わたしもすごく消耗したから、年度末で忙しいのは山々だけど、仕事はちょっとペースダウンするわ。今日は夜通し運転してくたびれたから、しばらく寝るわね」と言って、さくちゃんは自室へ引っ込んだ。あぁ、そうか。自分が歌を教えたシンガーすみれはわたしが自分の後を追うことを願い、わたしに編集の仕事を教えたエディターさくちゃんはわたしがその道に進むことを望んでいるのかもしれない。ただ、2人の希望がかなったとしても、シンガー波音もエディター波音の未来も2人には遠く及ばない気がしてならない。なぜなら、ささやかなわたしの歌や編集のスキルは、それぞれ、身近にいたすみれとさくちゃんの背中を追うようにして獲得したものだけれど、モチベーションという点では2人に叶わない気がするから。

すみれが天国のアメリカでジャズ・シンガーになれたのかは定かではないけれど、わたしはすみれの「すみれの母親はさくらに交代ね」という言葉を思い出し、本当にそうなったことを実感する。すみれと心さんの訃報を聞いて秩父に戻って家族葬を終え、京都に戻るまでの間、結局、わたしが心さんに恋していたことはさくちゃんには打ち明けられずじまい。いつの日か、このことをさくちゃんに話せる日が来るのだろうか?妹のすみれを亡くしたさくちゃんと母親のすみれと好きだった心さんの2人を同時に亡くしたわたしのお互いの悲しみの深さ、重さを比較するのはナンセンスだけれど、人生経験が少ない分だけ耐性がなく、わたしのほうがさくちゃんよりダメージが大きい気がする。それでも自分がさくちゃんのとびきりの愛情で包まれているのは、本当にありがたいと思う。「心さんと一緒に音楽をやれない寂しさは埋めようがないけれど、さくちゃんの側にいる限り、どうにかこうにか、生きていけそう」と、そんな気持ちが湧き上がり、「学校も仕事もがんばるね、できる範囲で。さくちゃん、ありがとう」と心中で返事をすると、そそくさとベッドに潜り込み、その日は夕方まで泥のように眠ったのだった。翌日からの自分がどうなるかも知らずに。

翌日。わたしは少しずつ、自分に起きた異変を自覚していった。希望に満ちた花の都だったはずの京都の街はすっかり色褪せてしまい、なぜだか鈍色にしか見えない。そして、大切な人を2人同時に失くした悲しみに暮れるより先に、バッテリーが切れたスマホのように、当たり前の動作がままならなくなってしまった。まず、夜は眠れない。そして、これまで普通に聴けていた音楽も聴けなくなってしまった。すみれが好きだったポップスもジャズも、心さんが教えてくれたソウルもブルーズも。ビートがあるもの、旋律が上下するものは刺激が強くて駄目だった。そもそも、音楽を聴けなくなってしまったわたしに、声を出して歌う気力はなかった。わたしははたと気づく。音楽に限らず、あらゆる種類のエンタメ、表現を楽しむには、まずは身も心もまともに動いていることが最低条件で、それを味わうには相応のエネルギーが要るのだと。そしてまた、おいしいはずの料理を食べても、自分の味覚が薄い皮膜の向こう側にあるようで、おいしさがはっきり味わえず、食べることの楽しみが遠くに行ってしまった。「茫然自失」「前後不覚」「五里霧中」「暗中模索」といった4文字熟語が脳裏をぐるぐる回るようにかすめる。小学3年生のわたしであれば、さくちゃんの胸に飛び込んでさめざめと泣いたかもしれないが、記憶に残っている限り、すみれのもっとも母親らしいセリフがそれを制した。「波音、よく聞いてね。さくらはあなたにめちゃくちゃ甘いだろうけど、それに甘えたら駄目よ。わたしのような片田舎の喫茶店の店主じゃなく、さくらは小さくても会社の社長だから、TPOと分別をわきまえて接してね。周りにさくらの会社の人がいたら、『さくちゃん』呼びはしないこと」みたいな内容だった気がする。子供の頃、疑問に感じていた「さくらはめちゃくちゃあなたに甘いだろう」というセリフの言外に隠れていた意味は、すみれが突然天国に旅立たなければ知る由もなかったのだけれど……。これまで幾度も聞かされたすみれの言葉に従い、すみれの死に際して伯母としてわたしを守ってくれたさくちゃんに敬意を表して、できるかどうかは別として、どうにかこうにか自力で立ち直ろうと決めたのだった。とは言え、「大切な人に先立たれる人はこの世にたくさんいるだろうに、果たして、この手の不幸に見舞われた人は、どうやって立ち直っていくのだろう?」という疑問と真っ暗闇のトンネルを独りで歩いているかのような心細さは、起きている限りぬぐい切れず、自分に起きた変化に戸惑うばかりだった。

本来なら、すみれとさくちゃん(本名:さくら)の「ボタニカル同盟(幼年期の本人たち命名)」こと、わたしが心密かに誇らしく思っている美人姉妹のお姉さんたち2人がお揃いのワンピで揃い踏みしてくれるはずの入学式には、当然のことながら、天国のアメリカに旅立ったすみれは不参加で、さくちゃんだけが来てくれた。満開の桜が咲き誇るキャンパスで、晴れがましい表情のどんな母親たちよりも、すみれを失くした悲しみをどこかに隠してわたしに微笑んでくれるさくちゃんの方がずっと美しく見えたのは、身内の身びいきだろうか。そこかしこで風に舞い散る桜の花びらを眺めているとすみれの不在が身に沁みたけれど、「いつかは必ず来るはず」と身構えていた「本当の悲しみ」はまだ姿を見せてはいず、いつ何時、それが現われるのかという警戒心がなかなかほどけない。

新入生とサークルの勧誘で忙しい上級生たちでごった返す4月のキャンパスを歩くたび、「この人口密度に、4年間耐えられるだろうか?」という不安しか感じなかった。同時に、すみれと過ごした高校時代の平穏な日常がどんどん遠ざかっていくのが何ともいたたまれない。それは決して、「あの頃」と呼ぶほど昔ではないのに。

あっと言う間に4月は終わってしまい、あの夜にさくちゃんと約束した「星になった人たちを偲ぶ女子会」はさっぱり実現できないまま、日々が過ぎてゆく。さくちゃんは以前よりも心なしか多忙になり、わたしのメンタルも落ち込んだまま浮上する気配もなかった。

‘She’に捧ぐ涙

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5月になってすぐ、丈ちゃんからLINEで連絡があり、去年まで心さんと3人でよく訪れた一乗寺駅側の「インキョカフェ」で再会することに。丈ちゃんは心さんの次男で、フルネームは風間丈二。名前の由来は、心さんがリスペクトするエリック・クラプトンと親しかったジョージ・ハリソンだとか。いつだったか、「俺が女子だったら、きっと名前は『レイラ』だったと思うよ。きっと恥ずかしくなるような、変な当て字のキラキラネームになってたと思う」と笑って話してくれた彼は、わたしより1学年下の高校3年生。歳下とは思えない落ち着きはどこから来るのだろう?いくつかの楽器ができるマルチプレイヤーで、中学時代からすみれが歌うカバーバンド「Violets」のサポートメンバーだった。曲ごとにキーボードにベース、カホンだったり、違う楽器を奏でてみせる腕前が素晴らしく、わたしは一目置いていた。簡単なギターのコードをいくつか覚えたくらいで、それきり上達しなかったわたしとは大違い。思えば、わたしが一年のうち2ヶ月を京都のさくちゃん宅で過ごすようになった小学3年の頃から、京都で何度も会っていたから、唯一の幼なじみと言って良かった。

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「こういうお店が堂々と存在しているから、京都はいいよね。このお店が俺らの学生時代からあったら、毎日通ったのになぁ。いつか、こういうところでアコースティックのライブをやれたらいいよな」と心さんがわたしと丈ちゃんを連れて行ってくれた「インキョカフェ」は、「ここはシカゴか!」と見まごうようなブルーズ尽くしのディスプレイが楽しく、オーガニックな感じのランチメニューもおいしい素敵なカフェ。いつだったか、トイレの壁に飾られた映画「THE LAST WALTS」のポスターが目に留まり、心さんが映画のDVDを貸してくれたのが良き思い出。「これを観れば、マディ(・ウォーターズ)や(エリック・)クラプトンの魅力の一端くらいは分かると思うよ」と言われ、わたしは3回ほど鑑賞した。「この映画のテーマ曲はインストだけど絶品だから、いつか、波音ちゃんがあのメロディに作詞してみてよ。歌詞つけたバージョンで演奏したら楽しいかも」と言ってくれ、わたしは「うん、やってみるね」と言ったままで、実際のところは手つかずだった。なぜなら、わたしと心さんのコラボ曲を作ることが楽しみで仕方なく、「この曲に歌詞書いて」と心さんから曲を渡されるのを今か今かと心待ちにしていたので、どんな知られたスタンダードのカバーよりも、「作詞:柊波音 作曲:風間心」と名乗れる曲を1曲でも多く作ってみたかったから。ちょっぴり悔しかったのは、すみれがVioletsで歌った最後のステージのラストに「THE LAST WALTS」のテーマを心さんがアコギで奏でて、それに合わせてすみれが創作ダンスを踊ったこと。本番前にセットリストを見ても「あぁ、心さんがインストであの曲を弾くのか」としか思わず、すみれが踊るなんてまったく知らなかった。鼻歌まじりに家事をしながら、リビングでステップを踏む時のそれではなく、あの曲で見せたすみれのダンスは完全に踊り手のそれだった。練習しているところをわたしには見せなかったから、きっとサプライズにしたかったに違いない。初めて、すみれにはっきりとしたジェラシーを感じたのは、独学では決してたどり着けないバレエのスキルですみれが心さんとコラボした結果がほれぼれするほどのレベルで「作品」として結実していたから。「THE LAST WALTS」のメロディの美しさも相まって、夢見るように美しかったすみれの舞いを引き立てる心さんのギター、2人の共演が起こすケミストリーを見せつけられたわたしは、あの時初めて、「心さんのギターにふさわしい歌が堂々と歌えるわたしになろう」と誓ったのだった。すみれにおねだりしていれば、高校時代にボイトレでもバレエでもいくらでも習えただろうに、今さら悔やんだところであとの祭り。

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閑話休題。

神戸から電車で来る丈ちゃんより、地元民のわたしの方が家から近いこともあって、かつて心さんを含めた3人で音楽談義に花を咲かせたカウンターに近いテーブル席を取って、丈ちゃんを待つこと30分。カーキ色のチノパンに、いかにもすみれが着てそうなワインカラーのペイズリー柄のシャツを羽織って現れた丈ちゃんは、放射状に毛先が伸びた髪型が誰かに似ている。あ、エヴァの渚カヲルくん?心なしか、少しやつれて見える。Violetsのライブを最後にやったのは前の年の暮れだったから、それから5ヶ月ぶりくらいの再会は、お互いの片親を亡くした後でもあり、気まずい感じが否めない。

席に着くなり、開口一番、「ご愁傷さま。メンタル、大丈夫?」と丈ちゃん。「丈ちゃんも、ご愁傷さま。全然大丈夫じゃないよ。どどーんとダウンしてて、何もかもさっぱり。何かこう、海の底に沈んだ感あるよ。こんなの、想定外もいいとこ」とわたし。

「大学って、どう?楽しい?授業は面白い?サークルとか入ったの?友達はできそう?」と矢継ぎ早に聞かれて、「もともと、人が多いのがダメだから、楽しくはないよ。授業が退屈なのは高校までと同じだけど、講義の抽象度が高いところが違うかな。心さんと音楽やることしか考えてなくて、元々サークルなんて入る気なかったから入ってないよ。授業に出る以外は、さくちゃんの会社の仕事を日々黙々とやってる感じ。友達はね、今のところは作る予定ないかな。周りのみんな、両親は健在で経済的にも豊かな無欠な感じで、わたしだけ微妙に浮いてる感じ。でも、このタイミングで環境変わったのはよかったかも。『母親が死んでも変わらない自分』を装う必要ないから」と近況を伝え、とりとめのない話がしばらく続いた後で、「波音、ちょっと告白していい?」と尋ねられ、「え?」と目が点になって、数秒間の沈黙。丈ちゃんはわたしの返事を待たずに、ゆっくり話し始めた。

「俺、音楽の師匠だった親父が死んだことより、すみれさんが死んだことの方が悲しくて。てか、『悲しい』って言葉だと自分の気持ちを表しきれなくて、毎日、涙が止まらなくて、ずっと泣いてる。波音に初めて打ち明けるけど、俺、すみれさんのことずっと好きだったんだ。シンガーとしてだけじゃなくて、女として。すみれさんがアメリカ行ってジャズ・シンガーになるって言ってたから、高校卒業したら、追いかけるつもりで英語だけは勉強してたし、すみれさんに気に入ってもらえる曲を書けるようになりたくて必死で努力してた、マジで。親父が若い頃にすみれさんに3回振られた話は知ってるから、すみれさんを親子2代で追いかけてたのは笑えるけど、このビターエンドは悲しいというより、本当に納得できない。こちらに非がないとしても、一緒にいた親父がすみれさんのこと守れなくてごめんな」と話しながら、丈ちゃんの瞳からぽろりと涙がこぼれ、ゆっくり頬を伝う。メンタルが普通の状態なら、「じぇ」を9回以上連呼していたが、あまりの驚きに声も出なかった。「この曲のメロディ、すみれさんに対する俺の気持ちにフィットするというか、俺の気持ちを表している気がするから、聴いてみて。エルヴィス・コステロの『She』って曲」とイヤフォンの片側を渡され、それを片耳に付けると、男性ヴォーカルの切々としたバラードが流れ始める。


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表情を崩さず、嗚咽も漏らさず、わたしの瞳をまっすぐ見つめたまま、ヘッドフォンから流れるメロディに合わせて、丈ちゃんは声は出さずに口だけを動かして『She』を歌った。真珠のようにきらめく涙を一筋流しながら。いつだったか、すみれとさくちゃんが「あの子って、紅顔の美少年よね」と噂していた丈ちゃんが、わたしより年下の美少年が、わたしの母のすみれへの露と消えた恋を諦められないと目の前で涙しているのだ。見てはいけない、何か神々しいものを目の当たりにしたような気がして、頭の中で「?」が流星群のように駆けめぐった。二の句が継げないまま、5回ほど『She』がリピート再生されたところで、丈ちゃんの涙も止まった。何が悲しいのか、彼の恋心がいじらしいのか、わたしももらい泣きしてしまう。カフェのテーブル席で向かい合う10代の男女が2人、無言のまま涙を流す姿は、別れ話をするカップルにでも見えただろうか?近くの席に、他のお客さんが不在で良かった。

「ウチの家庭さ、母親がいなくて父子家庭だけど、俺がすみれさんを好きになったのは、母親代わりとか、そういう意味じゃないよ。単純に、俺が知ってる他の誰より魅力的だから。歌がうまくてかわいくて、料理がうまくて気遣いできて、親父がベタ惚れしてたのも分かる。俺、声優の潘めぐみとか、上田麗奈とか好きなんだけど、すみれさんの魅力は、その2人に勝るよ。俺、作曲のスキルなら親父に負けないから、これから親父とすみれさんを奪い合うとしても、親父に勝てる自信あったんだ。アメリカどころか地の果てまででも追いかけて、すみれさんと結ばれたかった。『人を愛するってことは、どれだけ相手の力になれるかどうかを自分に問うこと』だと思うから、俺はすみれさんの力になりたくて、すみれさんがこれから行くところが世界のどこでも着いて行ってサポートするつもりだった。すみれさんはこれからだって充分にブレイクできるだけのポテンシャルがあると思ってたし、相応の魅力ある曲を書いてプロデュースして、彼女の実力を世に問うのは俺だと思ってたよ。これまでのすみれさんが無名のシンガーだったとしても、俺が彼女にふさわしい曲を書いて、無理やりにでも音楽の神様を振り向かせるつもりだったもん」と丈ちゃん。

自分の母親への告白を娘が代理で聞くという超レアケースだとしても、これほどまっすぐな男性の気持ちを打ち明けられることが一生のうちに何度あるのだろう?気の利いた言葉を見つけらず、丈ちゃんの真摯な思いにほだされるように、またもや涙で視界が霞んでゆく。どれだけ年齢差があろうと、誰かが誰かを好きになることに是非などない、はずだ。「わたしに言われてもうれしくないかもだけど、すみれのことをそんなに大切に思ってくれてありがとう。すみれの代わりにお礼を言うね。すみれの面影があんなに綺麗なメロディと今でもリンクしてるなら、すみれの一人娘として、本当に誇らしいし、丈ちゃんの今の言葉、天国のすみれが聞いたらきっと喜ぶと思う」と、精一杯の誠意で、言葉に託せるだけの謝意を丈ちゃんに伝えた。

幻のユニット、その名は「Sounds Of Waves」

「丈ちゃん、今日の要件って、この話ってことでいい?他に用事ある?」と尋ねると、「あ、ごめん。相談事が別にあってさ。そっちが本題だった。親父が波音とやるユニット用に残した曲があるから、それに作詞してほしい。全部で10曲弱かな?以前のライヴで1回だけやった『刹那を照らして』は俺の作曲だから、それ以外に7曲くらいある。親父がいないと肝心のギターをどうするかって問題があるけど、波音が歌詞を書いてくれたら、アレンジを仕上げてとりあえず形にはできるから」と思わぬオファーをもらう。

「でも、今のわたし、歌えないよ。全然、そんな気分じゃなくて、声が出ないし。ごめんね」と返すと、「いや、歌詞を付けてすぐに歌えなくても構わないよ。親父が波音のために用意した曲だけど、とりあえず、初音ミクに歌わせて、ネットには上げる。波音が回復していつか歌えるようになるまで、ミクに代理で歌ってもらう。多少の宣伝になるかもしれないし。データは後でストレージで送るけど、ワンコーラスずつ流すから、ちょっと聴いてみ」と言われ、今度はイヤフォンを両耳に着けた。曲が流れ始める。物悲しい感じのバラード、すみれが「聖子ちゃん風かも?」と喜びそうなポップな曲、子守唄になりそうな優しいメロディとか、安室ちゃんが歌いそうなアップトゥデイトなR&Bやボサノヴァとか、さまざまな曲調があって意外だった。心さんが大好きな3コードのロックやブルーズがないのが不思議に感じた。以下、丈ちゃんとのやり取りを一部抜粋して掲載。

「ねぇ、丈ちゃん、ちょっと思っていたのと違うんだけど。心さんが好きだったスライダーズとか、レッズとか、Superflyとか、そういう『いかにもロックな曲』がやりたいのかと想像してた」

「一応、その手のロックやらブルーズやらを演奏したトラックはあるけど、ギターソロを弾きまくっているだけで、肝心のメロディ、主旋律がないから、歌詞が付けられないよな。親父を弁護する訳じゃないけど、たぶん、そういうロックな曲はスタジオでジャムりながら作りたかったんじゃないか。あるいは、波音が書いた歌詞に曲を付けるとか、要はこれまでの手癖でやりたくなかったんだだろうね。ゆくゆくはフルメンバーを揃えてバンドにしたかったとは思うけれど、これから波音とやるユニットに、親父なりに賭ける気持ちはあったと思う。すみれさんと学生時代に出会って、親父の曲にすみれさんが作詞して「コニファー」って曲は作ったけど、形になったのはアレだけで、オリジナル曲でお客さんを呼べるほどにはうまくやれなかったからね。波音の力を借りて、その時のリベンジをしたかったんじゃないか。結果的に未完に終わったけど、親父はすみれさんと波音に、つまり、母と娘の親子2代のボーカリストにギタリスト人生の何割かを捧げるつもりだったんだぜ。すごくない?そんな話、聞いたことねぇよ。ちなみに、作詞する時はどの曲から手をつけても構わないから、書けるものから書いて。締め切りもない。何年かかってもいいよ。親父の遺産のこの曲たちを成仏させたいから、いや、違うか。親父の遺産に俺たちの手で命を吹き込みたいから、手を貸してほしい。前払いで親父からアレンジのギャラもらってるから、きちんと仕上げないと天国の親父から契約不履行で訴えられる(笑)。あ、親父から聞いてるかわからないけど、ユニットの名前は決まってて、「Sounds Of Waves(サウンズ・オブ・ウェイヴス)」。直訳すると「波の音」。要は、波音の名前を英訳しただけど、親父は気に入ってたよ。『こういうエレガントなバンド名でゴリゴリのロックンロールぶちかましたら、カッコよくないか?』って、よく言ってたな」

「それぞれの曲にどんな歌詞を付けて仕上げるとか、そういう……、コンセプト?みたいなものはあったと思う?」

「いや、親父に歌詞のディレクションを細かくやれるようなスキルはないよ。かと言って、俺にある訳でもないんだけど。最初は親父がアコギで伴奏して、波音が歌うみたいなスタイルで活動を予定通りスタートしてたとしても、「歌詞は波音ちゃんが歌いたいことを好きなように書いて」としか言ってないはず。だから、好きに書いていいよ。『AのフレーズとBのフレーズのどっちがメロディにフィットするか?』みたいな相談だったら、俺にも答えられると思う。『刹那を照らして』だって、そうやって仕上げたじゃん。あれ、すみれさんも作詞を手伝っただろ。波音が最初からこんなに書ける訳ないって、俺、見抜いてたもん」

「ご名答。サビのあたりとか、いや、もっとかな。すみれがだいぶ作詞してる。丈ちゃんは、わたしたちと一緒に演奏する予定なかったの?Violetsの時みたいに」

「親父には話してないけど、俺はすみれさんを追ってアメリカ行くつもりだったし、正式なメンバーになる話はやんわり断ってた。ごめんな」

「そうなんだ。わたし、Violetsのボーカルがすみれからわたしに交代するくらいの気持ちでいたけど、違うんだね。わかった。作詞してみるね。心さんが思うレベルで書けるか分からないけど」

「親父の意向とか、まったく気にしなくていいから。親父の仕事は原曲を書いたところでいったん終わってて、アレンジ終わった後で、それぞれの曲でどういうギターを弾いてもらうかも俺が決めるはずだったんだ。自分の趣味性ばかり押し出してもダメだって分かってたから、親父は俺にサウンドプロデュースを頼んだわけ。てか、先々、こういうことを頼みたくて、こういうマルチ・ミュージシャン的な俺に育てたんだよ。親父のメロディに波音が作詞して、ようやく原曲が完成。俺のアレンジが仕上がって、完成度が8割。波音の歌でレコーディングして、完成度9割。そこから先、できた曲をライブで演奏して育てていくってのが、親父がやりたかったことだと思う」

「これから波音とやるユニットに、親父なりに賭ける気持ちはあったと思う」という言葉が胸に刺ささった。すみれのカバーバンドが彼女の名前を英訳した「Violets」なので、わたしと心さんのユニット名がわたしの名前だったことに驚きはなかったけれど、わたしの名前を冠したユニット名を心さんが考えてくれたことが素直にうれしく、それが幻に終わってしまったことが切なかった。そしてまた、丈ちゃんがすみれへの気持ちを打ち明けてくれた際に言った「人を愛するってことは、どれだけ相手の力になれるかどうかを自分に問うことだと思う」という言葉にも背中を押された気がして、わたしは作詞のオファーを受けることにしたのだった。丈ちゃんの恋は叶わぬまま終わってしまったけれど、すみれのためになりたいと思い、彼があれこれ努力していた事実は本当に尊い。尊過ぎる。どんなに年齢差のある片想いでも、たとえ叶わぬ恋であっても、人がこんなにも切実に誰かを思うことの美しさや切なさが、映画や小説や少女漫画の中だけじゃなく、こうして現実に存在するのだ。丈ちゃんがすみれ宛の曲を書こうとしたように、天国の心さんが喜んでくれるなら、わたしも拙いなりに心さんが残してくれたメロディに乗せて言葉を紡いでみよう。わたしが心さんを思う気持ちがちっぽけに思えるほど、強くて尊いすみれに対する愛を心さんの息子の丈ちゃんからたっぷり聞かされ、わたしが作詞のオファーを受けたところで、久しぶりの丈ちゃんとの再会はお開きになった。

別れ際、お店を出たところで「あ、兄貴からの伝言で『違国日記』って漫画は波音におすすめらしいから読んでみな。これからも、時々会って、打ち合わせがてら話そう。それから、どんな些細なことでもいいから、すみれさんのこと、聞かせてほしい。これも兄貴からの受け売りだけど、『波音、生きろよ』」と丈ちゃんに言われ、「ありがとう。丈ちゃんも元気で。多少でも気が紛れると思うから、学校は休まず行ってね。また連絡するね」と返して空を見上げると、ポツポツと雨が降り出していた。そう言えば、いつだったか、心さんが「The Sky is Crying」というブルーズナンバーを弾き語りで聴かせてくれたことがあったっけ。「すみれの思い出話なんていくらでもしてあげられるから、心さんの思い出話もたくさん聞かせてね」という一言が喉元まで出かかったのに、結局言えずじまい。心さんからのギフトのように差し出されたメロディたちに歌詞をつけていくのに悪戦苦闘するのは目に見えているから、作詞の相談にかこつけて、丈ちゃんに会うたびに、少しずつ、わたしの知らない心さんのことを取材していこうと密かに思ったのだった。

思わぬ形で心さんの曲にわたしが作詞していくコラボはスタートすることになったことは喜ばしいけれど、曲が仕上がっても心さんのギターの伴奏で歌うことは叶わない。心さんが歌ってくれた歌のタイトルの通り、空だけでなく、わたしの心も泣いている。「京都で一緒に音楽をやる」という夢をくれた心さんは、どんなに叫んでも、此処にはいないのだから。


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帰路、一乗寺駅から出町柳行きの叡電に乗り、スマホのサブスクでエルヴィス・コステロの「She」をリピート再生して聴いていると、涙があふれてあふれて止まらない。高野川の河原を歩こうと思い立ち、一駅で電車を降りると、授業に使うタブレットと入学祝いにすみれから贈られた仕事用のマックブックを入れたキャスター付きのバッグをゴロゴロ引っ張っりながら、天国のすみれに想いを馳せる。

「すみれ、あなたは幸せだったね。カッコよかったパパも、ダンディーだった心さんも、美少年の丈ちゃんも、すみれが好きでたまらないって。ちょっぴり悔しいけれど、すみれはみんなのヒロインだったね。天国のアメリカでも、気が済むまで好きに歌って。ただし、男心を弄んだらダメだよ」と呼びかけると、「ヘイ、ガール、心ちゃんの曲に歌詞付けて、さっさと歌いなよ。でないと、あたしが奪っちゃうよ」とすみれに言われた気がした。「それはダメ。心さんの曲は絶対に渡さない」と不機嫌な顔で言い返すと、すみれがサムズアップのポーズをして満面の笑みで笑っている。

気がつくと雨は上がり、賀茂大橋から見上げた空に虹がかかっている。幼い頃から幾度も通い、これから始まる4年間お世話になるこの街で初めて見た虹は、空の上にいるはずのすみれと心さんからのギフトのように思えてならなかった。

To be continued.

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登場人物

▼柊波音(ひいらぎ・なみね)
京都市左京区在住。幼い頃から慣れ親しんだ叔母の家から、某私大に通う女子。大学入学直後の春、母のすみれと思いを寄せていたギタリストの風間心を交通事故で同時に失う。進学後の京都で心とユニットを組んで音楽活動をする夢は実現せず、途方に暮れる。人混みが苦手で、言葉に敏感。カフェめぐりと甘味好き。好きな歌手は、バディ・ホリー、大瀧詠一、竹内まりや、オーティス・レディング。

▼柊すみれ(ひいらぎ・すみれ)
波音の母。京都での学生時代に柊大介と知り合い、結婚。東北の震災後、夫の大介が不在になってからは、秩父の喫茶店の店主と姉のさくらからもらう編集の仕事をこなしながら、女手一つで波音を育てる。音楽と歌を愛し、松田聖子、リンダ・ロンシュタット、ホリー・コールがフェイバリット・シンガー。すみれの大学進学後に渡米して、ジャズ・シンガーになるという夢があった。

▼小此木さくら(おこのぎ・さくら)
すみれの双子の姉で、京都市左京区在住。独身。小さな編集プロダクションを営む。東北の震災後、波音の小学3年の春休みから、夏休み、冬休みの期間は波音を預かり、実の娘のように慈しんできた。ショートカットで快活なすみれとは対照的に、たゆたうような長い黒髪が美しく、物腰優しくエレガント。波音の中学時代から、編集の仕事を教える。趣味は筋トレと映画鑑賞。好きな音楽家は坂本龍一。

▼風間心(かざま・しん)
ギタリスト。生前は神戸在住。時には、カメラマンとして、さくらの会社の仕事を請け負うことも。流行には無頓着で、ブラック・ミュージックを追求するあまり、メジャーシーンで売れたことはなかった。学生時代からすみれに片思いをし、数回振られた後に別の女性と結婚。息子の丈二を儲けた後、バツイチに。すみれの夫の大介が不在になってからは、すみれのライヴ活動をサポートしてきた。好きなギタリストは、エリック・クラプトン、木原敏雄、ハウンドドック・テイラー。

▼柊大介(ひいらぎ・だいすけ)
波音の父。フリーランスとして医療機器などのセールスに従事していたが、2011年3月11日、出張先の東北地方で消息不明に。京都の某私大で小此木さくらと知り合い、3年ほど交際するも、ドラマーとしてバンド活動を共にしていたすみれと結ばれる。ブルース・スプリングスティーンとサウスサイド・ジョニーを敬愛し、先々の起業とアメリカ移住を夢見ていた。

▼風間丈二(かざま・じょうじ)
心の一人息子で、年齢は波音の1つ下。幼い頃から京都滞在中の波音と会うことが多く、いわば幼なじみ。さまざまな楽器をこなすマルチプレイヤーで、生前のすみれが歌っていたカバーバンド「Violets」では父親の心と共にサポートメンバーだった。波音と心が組む予定だったユニットではサウンド・プロデュースを依頼されていた。好きなミュージシャンは、ビートルズ、スティーヴィ・ワンダー、松任谷由実。

Special Thanks

インキョカフェ
京都府京都市左京区一乗寺里ノ前町5-1  

Notes

・ここから始まるストーリーにまつわる楽曲を「Seeds Of Wish (シーズ・オブ・ウィッシュ)の名義で発信していきます。楽曲のサウンドプロデュースは、田村信二さん。
・楽曲の公開、配信に伴い、各ストーリーを朗読した音源も配信予定です。